小説「ボラカイ島」 南 右近

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<<   作成日時 : 2007/06/14 12:44   >>

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  入り口付近のタイルが滑りやすい店は確かに多い。雨などで濡れるとその危険度は一段と増す。もし骨折したのが強盗ではなく子供やお年寄りだったらどうだろう。店にも少なからず責任はあるのではないかと考えた正樹は店のオーナーや本部のスーパーバイザーに滑りやすいタイルを何とかするようにと提言した。しかし銭のかかる話はなかなか進まないのが常だ。一ヶ月、二ヶ月経ってもよく滑るタイルはそのままだった。強盗がそのタイルで怪我をして運ばれたことを誰にも言わなかったから余計に説得力がなかった。そしてだいぶ時が経ち、正樹はもう強盗のことを忘れかけていた時だった。昨日、オーナーが発注をミスってしまって二日分の大量の荷物を捌いている時だった。耳にこびり付いてはなれない来客を告げるチャイムがなった。条件反射的に入り口の方を見ると、あの時の強盗が入って来るのが見えた。今夜はこの前と違って帽子もサングラスもマスクもしていなかった。正樹のことを見ると、ペコリと二度三度と頭を下げ、そして足を引きずりながら正樹の作業をしている所に近づいてきた。躊躇することなく彼の母国語で正樹に話しかけてきた。
「先日はありがとうございました。見逃していただいて本当に助かりました。つい出来心で押し入りましたが、今は深く反省をしております。」
正樹はちっともこの強盗のことを恐いとも憎いともおもわなかった。それより骨折した足のことが気になっていた。
「どうした足の具合は、まだ痛むのか。ちょっと見せてみろ。」
正樹も彼の国の言葉でもって答えた。強盗の顔色は店を襲った時よりはまだましだったが、相変わらず体はやせ細っていた。
「へい、もうだいぶ良くなりました。」
「ちょっと、そこに座ってみろ。」
正樹は強盗を椅子に座らせ、ズボンの裾を手際良く捲り上げ患部を診ながら言った。
「おまえはどこの出身だ。」
「パナイ島でっせ。」
「そうか、パナイ島か。それじゃあ、ビサヤだな。タガログ語よりもビサヤ語だな。俺はビサヤ語は得意ではない。このままタガログ語で話をしてもいいか。」
「へい、もちろん結構でっせ。タガログ語は学校で習いましたし、国の言葉を統一しようという動きがありますからテレビなどではもっぱらタガログ語が使われていますからね、こんなあっしでも理解は出来ますぜ。しかし驚きましたぜ。日本にもだんなのようにあしらの言葉が話せる人がいるなんて、本当にびっくりしました。」
正樹は奥から救急箱持ってきて、血がにじんだ包帯をはずして傷口を診てから新しい包帯を上手に巻き直した。そして手を良く洗って特上の肉まんを二つ蒸し器から取り出して強盗に差し出した。
「お前の足はもうだいぶ良くなってきている。でも栄養を取らないとまた簡単に折れてしまうぞ。ほら、温かいから食え。フィリピンではシオパオだが、ここでは肉まんと呼んでいる。豚肉だ、猫の肉ではないから心配するな。」
 フィリピンではたいていの映画館でポップコーンといっしょに中華まんが売られている。よく人々は冗談半分で饅頭の肉がぐちゃぐちゃで何の肉だか分からないので猫だ猫だとはしゃぎたてるが、調理人以外にはその真実は分からないことだ。確かにシオパオの肉が猫だと言われてみると正樹はそんなような気もする、味が豚でもないし鳥でもない独特なものだからだ。強盗は両手でその肉まんを包んだまま食べようとはしない。
「どうしたんだ。おいしいから食べてみなさい。食べて元気をつけなくては駄目だぞ。」
そう再び言って、正樹は自分の為にもう一つ肉まんを取り出して先に食べ始めた。
「何をしている。温かいうちに食べろよ。うまいぞ、シオパオは嫌いか。」
強盗は首を振りながら言った。
「シオパオはあっしの大好物ですよ。ええ、いただきますよ。喜んでいただきます。そうじゃないんです、あっしは日本に来て何一つ良い事がありませんでしたからね。日本に来ればたくさんお金が稼げるとばかりおもって国を出たんですがね、それは間違いでした。これまで良いことなんか何もありませんでしたよ。それなのに、こんな温かい親切は初めてでっせ。強盗したのに見逃して下さり、こんな温かいシオパオまでくださるなんて、だんなのようなお優しいお人が日本にもいるなんて、嬉しくて喉がつかえてしまって。」
「大袈裟な事を言うな、もういいから食べろ。」
「あっしは明日、東京入管に出頭するつもりなんです。その前に一言だけ、だんなにお礼が言いたくてやってまいりました。それがまた、こんなあったかい親切をしていただいて、なんてこった。」
やっとここで、強盗は肉まんを頬張り出した。
「そうか、明日、入管に行くのか。滞在期間の許可が切れているんだね。強制送還されるわけだね。私にはよく分からんが、お前の為にはその方が良いのかもしれないな。金がなくても生まれた島にいるほうが幸せかもしれないよ。ここにいて死んでしまったんではおまえの家族が悲しむだけだからな。」
「ええ、だんなのおっしゃる通りでっせ。まったく、何もなくても家族のそばが一番ですよ。家に居た時は近所の誰かしらが食事を分けてくれましたからね。こんなに食えなかったことは一度もありませんでしたよ。」
「でもおまえの気持ちもよく分かるよ。親戚の誰かが日本に来て、しこたま稼いで帰ると大きな家が建ったりしてな。それを見た家族があんたも出稼ぎに行って来てよと捲くし立てる。そうだな。」
「ええ、その通りでっせ。あっしも家族の為にと遣って来たんですがね、失敗しました。」
「まあ、人生、悪いことばかりじゃないよ。良いことも必ずやってくるから。それまで家族のそばで待つことだな。ところで、おまえはさっきパナイ島の人間だと言ってたな。おまえに一つ頼みがあるんだがな。パナイ島は大きな島だから頼めるかどうか分からんが、隣のボラカイ島はおまえの所から近いのか。」
「うちらの村からカリボの町まではバスで2時間ですから、ボラカイ島の入り口のカティクランまでなら3時間ちょっとですかね。」
「そうか。おまえ、家に帰ったら、いつでもいいんだが一度ボラカイ島に渡ってくれないか。ボラカイ島の丘の上に共同墓地があるんだが、そこに行って簡単でいいんだが、墓の掃除をやってはくれないだろうか。もちろんお礼は出すつもりだ。」
「礼などいりませんや。いいですとも、あっしに任せて下さいな。そのお墓にはきっとだんなの大切なお人が眠っているんでしょうから。ええ、きれいに掃除をしてまいりましょう。ボラカイ島ですか、あそこはきれいなところですよ。まるで天国のようなところだ。あそこの美しさは半端じゃありませんからね。しかしまったく、だんなには驚かされますよ。あしらの言葉が話せるだけかとおもえば、ボラカイ島のことまで知っていらしゃるんだから。いったい、だんなは何者なんです。」
「そんなことはどうだっていいよ。そうか、行って来てくれるか、すまないな。私も一日も早くボラカイ島に戻りたいんだが、なかなかそうはいかなくてな。」
正樹はボラカイ島の話をして、様々な思いがこみ上げてきてしまった。さっきまでのようには言葉が出てこなくなってしまっていた。コピー機の中から一番大きな用紙を取り出し、そこに墓への地図といくつか名前を書いた。そして丁寧に四つに折って、強盗に渡した。
「そこに書いてある名前の墓をさがして掃除をしてやってくれ、本来なら自分でしなくてはならないところだが、お願いするよ。すまんな。」
「だんなが、そんなに涙ぐんでいらっしゃるんだ、よっぽど大切なお人がそこには眠っていらっしゃるんですね。ええ、任せてくださいな、ちゃんと、どの墓よりもきれいにしておきますから、心配しないで下さい。」
「すまんな。」
正樹はポケットから5万円を取り出して二つに折って強盗に渡そうとした。
「少ないけれど、これは取っておいてくれ。」
強盗はそれを見て、慌てて言った。
「だんな、そんな大金、結構でっせ。礼なんていりませんよ。逆ですよ。先日、見逃してくれたお礼をしなくちゃならないのはあっしの方だ。それはいただけません。どうぞそれはおしまいになってくださいな。」
「いいから、取っておけ。あの島まで行くのにもけっこう金がかかるし、それに花を買ってもらいたいからな。お金はいくらあっても困らんから、いいから、これはとっておけ。」
そう言ってから、正樹は強盗のポケットにそれをねじり込んだ。

 店の前にマイクロバスが横付けになった。コンビニの忙しい朝が始まった。早起きの現場の作業員たちがどかどかと入って来た。道が混む前に現場に移動する為なのか、建設業に携わる人たちの朝は早い。レジにはすぐに弁当とスポーツ新聞、そしてもう一品、カップ麺を持って長い列ができてしまった。正樹は強盗に言った。
「どうやら忙しくなってきたようだ。もうゆっくり話が出来そうにないな、その金はとっておけ。お金はいくらあっても困らんだろう。それからもう馬鹿なまねはするなよ。」
「だんな、お墓のことはあっしに任せて下さいな。必ず行って掃除をしておきますから。だんな、本当にありがとうございました。どうぞお元気で。じゃあ、あっしはこれで失礼します。」
「あ、そうだ、強盗。おまえの名前は何と言うのだ。」
「あっしはイルバートと申しやす。だんなのお名前は。」
「正樹だ。マ サ キ だ。」
「マサキですね。」
「ああ、そうだ。もう強盗はするなよ。一隅を照らすこともまた素晴らしい人生なんだぞ。しっかりと与えられた境遇の中で一生懸命に頑張ること、それはそれでまた美しい生き方だとわしはおもう。日本に来なくてもパナイ島でしっかりと生きていれば、故郷の恵みをたくさん享受できるはずだ。しっかり生きろよ。」
正樹はそうイルバートに言ってレジの前に戻った。イルバートはペコリと頭を下げて店の外に出て行った。もう店の外はすっかり明るくなっていた。暦の上ではもう春なのにそれは名ばかりでまだまだ冷たい北風がイルバートの背中に吹き付けていた。

 イルバートは寒い日本から常夏のマニラに強制送還された。マニラの警察に着いた時には正樹と別れてから一ヶ月の時間が経ってしまっていた。大都会マニラから故郷のパナイ島に戻ったのはさらにその8ヶ月後で、そして正樹との約束を守るためにボラカイ島に渡ったのは3年後だった。しかしイルバートは正樹との約束をちゃんと守った。

 ボラカイ島の名前はダイバーたちの間ではかなり有名ではあるが、まだまだ世間一般にはその名は知られていない。ましてやその場所を正確に言い当てることが出来る者は皆無に等しい。でもボラカイ島はとても美しい島である。訪れた者は誰でもこの島のことを有り触れた表現だが、天国に一番近い島と呼ぶようになる。フィリピンのほぼ中央に位置する周囲が約7キロメートルの小さな島だが、島の中央に4キロメートルも続く真っ白な砂浜がある。何層にも分かれたエメラルドブルーの海、そしてその空間の8割以上を占める大きな青空は想像を絶する美しさだ。ボラカイ島の海の色は毎時間ごとに光の加減で微妙に違ってくる。薄い水色から深い藍色まで、時には緑がかったエメラルドブルーに変化したりもする。椰子の木の下に座って遠くの海を眺めていると、遠くの波の上にかかった雲がその下の海だけにスコールの雨を降らせながら移動したりして、そんないかにも涼しげで南国独特の風景も垣間見ることが出来る。これ以上は決して望めないだろうと言い切れるほどの極上の白い砂浜は魔法を使って人々をボラカイ島の虜にしてしまう。自然の美しさ以外には何も娯楽施設はいらない。ただゆっくりと島を包んで流れていく贅沢な時間さえあればそれでいいのだ。この南の小さな島は地球に残された数少ない地上の楽園の一つだ。最後の楽園と言っても誰も文句は言わないだろう。いや、むしろそう誰かに言いふらしたくなるはずだ。リピーターの多いことがそれを証明している。
 文明社会に疲れた人々はこの島に心の休息と一時の安らぎを求めて世界中から集まってくる。日本で知られるようになる前から、日照時間が短く太陽の恵みが少ない北欧では世界の美しいビーチのベストテンの上位に常にボラカイ島はランキングされ続けてきた。地球の裏側にもかかわらず、多くの北欧の人々がこの浜にやってきて長期の休暇を楽しんでいる。一世を風靡したかつてのヒッピーたちもこの島に自由を求めて集まって来ていた。
 倒産が相次ぐ冬の時代に「癒し」という言葉が流行り始めた日本でもこの島のことは次第に知られるようになってきた。不景気と倒産の嵐で疲れた日本人たちがこの島を訪れた時、やはり誰もがこのボラカイ島のことを天国に一番近い地上最後の楽園と呼ぶようになる。最近ではこの島も開発がどんどん進んで便利になってしまい、以前のような素朴な魅力が失われつつあると、昔よくこの島に来て長逗留をしていたバック・パッカーたちは嘆くけれど、まだまだボラカイ島は圧倒的に美しい自然でもって訪れる人々の期待は決して裏切ったりはしない。とてもきれいな島である。

 イルバートがボラカイ島に着いた時、彼の懐はとても寂しかった。正樹からもらったお金はもう何年も前になくなってしまっていたし、故郷に戻っても仕事には在りつけなかった。それでも彼は正樹との約束を一度も忘れなかった。地元でバランガイのキャプテンを決める選挙があり、有力者から自分に投票するようにと言われて、イルバートは500ペソをもらった。正樹がくれた5万円は3年前だったがブラック・マーケットで両替したら25000ペソになったから、それに比べて500ペソは端た金だ。飲んでしまえば一夜でなくなってしまうところだったが、イルバートはその500ペソで重たい腰を上げた。ボラカイ島へ渡る決心をしたのだった。だからボラカイ島に着いても島の唯一の交通機関であるサイドカー付きのオートバイ、トライシクルに乗る余裕などはなかった。正樹が描いた地図をトライシクルの運転手に見せて道順を教えてもらった。結局、正樹に頼まれた花は買うことが出来なかったけれど、道すがら野に咲く花をいくつか摘みながら丘の上の共同墓地に向かった。ただ正樹との約束を守ることだけを考えていた。イルバートが墓地に着いた時、墓守らしき老人がスコップを持ち古くなった墓を整理していた。その老人の他には人影はなかった。風が海から吹き上がってきていて、とても気持ちが良かった。
「すみません。ちょっとお尋ねします。」
イルバートは墓守に声をかけた。まだ耳は聞こえるらしく、その老人はすぐ頭を上げてイルバートの方を見た。イルバートは老人の近くまで行き、正樹が書いたメモを見せた。
「この墓はどこにありますか。」
老人はそのメモを手にとって、一目見るなり頷いた。
「あそこじゃよ、あそこの花が供えてあるお墓がそうだ。」
イルバートは慌てた。誰かがすでに花を供えていたからだ。
「すみません。あの花は、誰が。」
「マサキ先生じゃよ。毎日、ああやって新しい花を供えている。今時珍しいお人だよ。先生はよっぽど会いたいんだね、また生まれ変わって、あのお墓のお方と巡り会いたいんですね。」
「マサキ先生。そのマサキ先生というのは日本人ですか。」
「ああ、そうじゃよ。この島でマサキ先生のことを知らない者はおらんよ。」
「じゃあ、そのマサキ先生は、今、島にいらっしゃるんですか。」
「ああ、しばらく日本に出稼ぎに行って留守にしておったがな、先月だったか、先生のお母様と一緒にやっと診療所にお戻りになったよ。」
「なんでまた、診療所があるのに日本に出稼ぎに行くんですか。」
「先生のおかげで島の者たちは金がなくても診療所に行くことが出来るんだ。診療所の入り口に箱が置いてあってな、金のあるものはちゃんとその中に入れるが、ないものはいつかお金が出来たときにその箱の中に入れればいいんだよ。薬代がないときも相談にのってくれる。まったくあしらみたいに貧乏な者にとってはありがたいことだよ。でも、診療所の経営は苦しいらしくて、先生は時々、日本に出稼ぎにお行きになるんだ。」
 イルバートは恥ずかしかった。墓の掃除をする約束だったのに、自分より先にマサキ先生が帰って来てしまっていた。でも会わないわけにはいかない。会って謝らなければならないとおもった。
「その診療所というのはどこにあるのでしょうか。先生に会ってお詫びをしなければならないから。」
「パレンケの近くだ。パレンケに行ったら誰でもいいや、聞けばすぐ分かるさ。でもこの時間にはマサキ先生は診療所にはいないよ。最近はいつもこの時間になるとお袋さんと浜辺にいる。浜辺に行った方が会えるかもしれねえよ。」
そう言ってから、老人はまた墓を掘り起こし始めた。イルバートは丁寧に礼を言ってからその場所を立ち去った。


 ボラカイ島はいつものように今日も静かに夕暮れ時をむかえようとしていた。それは毎日繰り返される神秘的で神聖な瞬間だ。
 二人の老人がホワイト・サンドビーチと呼ばれる白い砂浜にいた。椰子の木を背にしながら暗くなりかかった海を見つめていた。二人並んで黙ってベンチに腰掛けていた。真っ赤な夕陽の垂れ幕が二人の影を染め始めていた。
 初老の正樹と母の正子は流木で作ったベンチに腰掛けて目の前のボラカイの海に沈む真っ赤な夕陽を眺めていた。二人は決まって夕暮れ時はここにいた。暗くなりかかった天を仰ぎながら正樹がゆっくりと口を開いた。
「母さん、やっぱり日本に帰ろう。ちゃんとした病院に行こうよ。帰ろう、日本に。」
「いいんだよ、お前がこうしてそばにいてさ、こんなにきれいな島で死ねるなんて幸せなことじゃないか。もうあたしは八十だよ。もう十分に生きたよ。あたしは帰らないからね。日本の薬付けのベットなんか真っ平御免だよ。延命治療か何か知らないが、ただベッドの上で長生き出来ても、あたしゃ、ちっとも嬉しくなんかないさ。毎日毎日、来もしないお前たちをベッドで待っているのは地獄だよ。それよりこうしてこの島でお迎えがくるのを静かに待ていたいんだよ。日本には帰りたくないね。」
「でも、日本で治療してから、またここに戻って来ればいいじゃないか。近代設備の整った大きな病院で完全に治してから、また、このボラカイ島に帰って来ればいいじゃないか、だから、帰ろう、かあさん、日本へ。」
「嫌だよ。あたしはおまえと一緒にここにいたいんだよ。もし今、日本に帰ったら、もう二度とこの美しい島には戻って来れないのに決まっている。分かるんだよ。自分のことは自分が一番知っているからね。最後のあたしのわがままさ。あたしは絶対に帰らないからね。駄目だよ、あたしはもう決めちまったんだからね。お願いだから最後まであたしのそばにいておくれ。お前には迷惑かけるけどさ、お前のそばにいたいんだよ。後生だから、今の幸せを壊さないでおくれ。もう、じたばたしてもしょうがないじゃないか。」
 正樹は母の横顔をじっと見つめた。そこには安らかな運命を甘受する表情が満ち溢れていた。正樹はそれに気づき、話を続けるのを止めた。いつの間にかボラカイ島の海はすっかり暗くなってしまっていた。

 イルバートは浜に出て正樹を捜した。しかし、4キロメートルも続く白浜である。そう簡単には見つけ出すことが出来なかった。日が暮れてしまっていて、暗い浜辺で正樹を見つけ出すことはさらに難しくなってしまった。イルバートは診療所に行ってみようと考えたがやめた。こんな時間に訪問すれば、宿もお金もない自分だ、また迷惑をかけてしまうのに決まっている。もうこれ以上、正樹先生にあまえるわけにはいかない。イルバートは野宿をしても誰からも文句を言われない共同墓地に引き返した。朝になったら、先生の大切なお人のお墓をきれいに掃除して、先生とは会わずにボラカイ島を去ることにした。
 正樹は早朝の散歩が好きである。まず診療所の近にあるパレンケ(市場)の花屋に寄ってサンパギータの花をさがす。もしサンパギータがない時は質素な白い花を買う。そしてその花を持って丘の上の墓地まで散歩をするのが正樹の日課だ。今朝もいつものように明るくなりかけた共同墓地に正樹はやって来た。すると誰かが墓のそばに倒れているのを発見した。男だ。正樹は近づいてそのみすぼらしい男に声をかけてみた。
「もしもし、大丈夫ですか。どうしたんですか。」
すると、男は目を覚まして立ち上がった。
「あ、正樹先生。ご無沙汰しておりました。あっしです。」
正樹はすぐにその男が誰であるのかが分かった。
「お前はあのときの泥棒、確か、イルバートと言ったな。」
「へい、さようでございます。あっしの名前をまだ覚えていてくれたんですね。もったいないことです。あんなにお約束したのに、掃除をしに来るのが今になってしまいました。本当に申し訳ありません。」
「何を言うんだ、お前はちゃんとこうしてここにいるじゃないか。わざわざすまんな。遠い所を掃除をする為だけに来てもらって、本当に有り難う。お礼を言います。ところで足はどうした。おまえの折れた足はもう良くなったのかな。ちょっと見せてみろ。」
「まだ、あっしのことを気にかけてくれているんですか、先生はなんとお優しいお人だ。ええ、足の方はもうすっかり良くなりました。ほら、この通りちゃんと歩けますから、大丈夫です。もしあの時、怪我をしてあのまま逃げていたなら、医者にも行けずに足が腐ってしまったでしょう。きっと今ごろはびっこになっていたかもしれませんね。これもすぐ応急処置をして下さって救急車を呼んでくれた先生のおかげです。有り難うございました。昨日、ここの墓守の爺さんから聞いて驚いたんですが、先生もあっしと同じ様に日本に出稼ぎに行っていたんですね。」
「ああ、そうだよ。おまえと同じだ。そんなことより、イルバート、おまえ、あきれた奴だな、いくら日本と違って寒くないとはいえ、お墓で眠る奴があるか。まったく驚いた奴だな。」
「へい、ここなら野宿をしても誰も文句はいいませんからね。」
穴のあいたシャツはイルバートが文無しでおまけに仕事がないということまで表現していた。正樹はさっき買ってきた花を墓に供えてからイルバートにゆっくりと言った。
「ちょっとあそこの岬までわしと朝の散歩をしないか。」
「ええ、お供いたしますよ。」

  メインロードに出て、しばらくしてまた山道に入った。そんなに急な坂ではなかった。しばらく砂利道を歩いて、ゆっくりと岬まで正樹とイルバートは話をしながら歩いた。
「イルバート、おまえ、子供は何人いる。」
「六人おります。」
「六人か、多いな。まあ、この国では少ない方かもしれないな。わしは二人だ。娘が二人日本にいる。二人とももう嫁いでしまったよ。」
「お母様を島にお連れになったと、墓守の爺さんが言っていましたけれど、これからこちらで一緒にお暮らしになるのですか。」
「ああ、そのつもりだったんだがな、今は少し、お袋をこの島に連れて来たことを後悔しているんだ。お袋の体の具合があまりよくない。もう年だからな。それも仕方がないのかもしれないが、どうしたらよいのか迷っているところだ。」
「お幾つでいらっしゃいますか。お母様は。」
「八十になる。」
「そうですか。失礼ですが、お父様は。」
「おやじはもう死んだよ。アルツハイマーで入院している時に院内感染にあって死んだんだが、葬式の時にな、焼き場の係りの人が親父のわずかばかりの骨を見て、お父様は癌でお亡くなりになられたんですかって聴いてきたよ。毎日、焼きあがった骨ばかり見ている連中の言葉だ。結構、それが正しいのかもしれないな。親父は癌だったかもしれない。」
「さようでございますか、それはご愁傷様です。」
二人は大きな庭のあるお屋敷の前に出た。どこまでも続く塀がイルバートの度肝を抜いた。とても大きな門があり、門から奥へ並木道が続いていた。あまりに庭が広すぎて奥の屋敷の建物が見えない。その道の両側にマンゴーの木がたくさん植えられており、イルバートは完全に言葉を失っていた。正樹が言った。
「着いたぞ。」
イルバートはびっくりして言った。
「着いたって、このお屋敷に入るのですか。」
「ああ、そうだよ。」
何人か子供たちが集まって来た。正樹のことを見るとみんな日本語で挨拶をしてきた。
「正樹先生、おはようございます。」
「おはよう。」
イルバートが驚いたのはそれからだった。敷地の中に入り、屋敷に向かって歩いていくと子供たちが次から次から何人も何十人も出てくるのであった。みな同じように日本語で挨拶をしてくる。イルバートは正樹に尋ねた。
「先生、ここは何かの学校か何かですか。みんな、日本語を使っているではありませんか。」
「なあ、イルバート。おまえ、ここで植木の手入れや家の手伝いをしてみる気はないか。」
あまりに突然のことで、イルバートは何も答えられなかった。


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